昭和50年05月15日 朝の御理解



 御理解 第79節
 「商売をするなら買い場、売り場というて、元をしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから矢張りその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」

 七十九節を頂くたんびに思うんですけど、本当に商売人がこの御教えを本気で実行したら、もう絶対商売は大繁昌でしょうね、是はもう絶対です。何処よりも安い。しかもそのー仕入れ先をも大事にする。お客様をも大事にする。そして人よりも余計働く。体はちびるものでないから働くがよいと。所が中々もう是は信心は無くっても、此処ん所に徹して行く商売人であったら、商売繁昌しない筈は絶対ないですね。
 絶対です。良い品物ば安う売る。しかもお客さんを大事にする。仕入れ先を大事にするのですからね。所が中々そうはいけん。大事にしておる様であって大事にしてない証拠に繁昌しない。私くし共も永い間商売をやって参りましたけれども、もう一っつも実行してない。果して仕入先を大事にして来たか、お客様を大事にして来たか。それは自分の都合の良い時は大事にして来たでしょう。
 けどそう云う事ではない。都合は良いから悪いからではない。自分の方に得をするからしないからじゃない。教祖が仰る大事ににすると云う事は、どう云う場合であっても大事にする信心でです。そして是は私くしの場合ですけれども、人が十銭で売るのなら十一銭で売る事がおかげの様に実際思うて来た事をです。成程そのうそれで売れても来ましたけどね、一つも繁昌してない。
 最後のその体はちびるものでないからとおっしゃる。是は一生懸命働いた様に自分でも思うんですけれどもね、金光様の御教えは是は商売人に対する御教えですが、もうこの御教え商売人に対する御教えは是一つなんです。ですから本当にお道の信心さして頂く者が、本気でこの御教えに云わば取り組ませて頂いたら、素晴らしい事になる。私は相よかけよの道と言われとります、お道の信心は神様と氏子とがいわゆる相よかけよね、氏子も助かる神も助かるそういう道。
 私が商売をしておるならば、仕入れ先からも喜んで貰う。お客さんからも尚喜んで貰う。そこに仕入れ先がです例えば来たものが少ない時は、同じ物ならあそこに売ろうと云う事になるでしょうし、お客さんの方から言うたらですね、同じ買うなら少しは遠かけれども、ただ言う位の事だったらやっぱりそこで買う、いや他人にも紹介するでしょう。私は信心で此処ん所を徹底して行くと云う事だとこう思います。
 目先は二銭損の様でも数が売れるからと、もう確かにそうです。昔からそれこそ損して得とれと言われる位ですから。所が中々出来ません。私は本当にここらへんはです、やっぱり普通凡人では本気で信心が解らして貰い、信心の熱情、私は信心の熱情を持って、是に取り組まなければ、取り組めない事だと思います。でもまあ私くしを自分という私くしと云う物を出来なかったからね、私くしを一つのまぁ見本の様にして、お話を聞いて頂きたい。そりゃ中にはありますよ。
 信心はせんでも是に本当に徹している商売人が、とても真似出来ない。実際真似が出けない。実際実行出来ない。ですから結局信心に打ち込んで信心の喜びね、言うなら信心の熱情を持ってするならば出来ぬ事はなかろう。もう有難うして有難うして、もうそれこそ損得は。昨日矢部の後藤さんの例をとってお話しましたように、もう自分の事は忘れてしまうとるという位に商売人、この御理解で云うならば、もう欲得とか儲けるとか損するとかもう忘れてしまう様にして、お客さんが喜ばれる事ならば。
 それに奉仕すると云う様なです、是は信心の熱情が言うならたぎっておる様な時じゃないと出来ないと思うです。そしてそれを一と度び実行して見てです、成程というおかげがお互い信心、がそんなに何時も燃えておるとかたぎっておると云う様な、信心が中々出来ません。けれどもです、本気で信心がそういう、云うならば熱情を持ってするならばです、もう頭にソロバンをこう頭でソロバンを置かない。只有難い勿体ないがそのままお客さんに、又は仕入れ先にも当たって行けれる。
 どうぞ皆さん今日の御理解は、はああ今日の御理解は商売人だけの御理解と思わずに頂いて下さい。同んなし事ですね例えば教えを守と云う事、教祖様がね色々と人間の生き方、真の道を教えて下さる。その真の道を踏むと云う事でもです、こうある事が真の道を踏む事だぞと教えられてもですね、人間じゃからこん位の事はこらえて貰わにゃと言った様な生き方ではなくて、信心の熱情に燃えておる時にはですね、それが例えよし茨の道であっても、それがよし真の道であると解ったらそれを平気で通って行けれる。
 信念をもって通って行けれるです。それが真の道が所謂真の信心に繋がらして貰い、真のおかげが受けられて来る事になって参ります時にです、初めて今まで考えておった、信心の無かった薄かった時分の生き方というのもはもう、其処の所の体得が出来たら馬鹿らしゅうて、言うならば高うは売られんな、勉強せにゃ売られん事になって来るです。だから私くしはやっぱり言われてから出来る事じゃない。
 信心教えを行ずると云う事。教えを守と云う事は、信心の熱情が欠けておったら、それはそれを教えを受けると言う事は出来ない。それを頂くと云う事は出来ない。体はちびるものではないからね。それは成程お互い神経はもっておりますから、又そのうそれ々の感覚と云う物がありますから、言うならば神経からでもきつかったり、もう一日働きますとね、やっぱり神経からでもきついです。所がそこが信心です。
 そこでです私くしはそう言う体験を身に付ける為にですね、商売の事に一生懸命にま、仕事の事にです一生懸命働くと云う事ではなくてですね、神様に足を向けて来る事に一生懸命に、それこそ体はちびるもではないからと云う生き方をなさったらこの辺の事が解るです。いや解るというが段々段々、おかげを頂いて神経を使わん様になるです。私は昨日の晩も朝二時半でした。一時間寝んだようですけども、それは一時間眠っちゃおりません。まあーうとうと位はしました。
 夕べも私は何時も十二時頃、ここ夜中に一遍見て廻りますけれども寝んどったら又何とはなしに、出で来たいという気が致しましたから、もう一時過ぎてましたでしょうか出て参りました。丁度秋永先生と高橋さんが日田の共励会から帰って見えておる所で御座いました。それから又勝手でお茶どもあげて、それから信心話になったらもうお互い夢中になって話しよりますもんだから、もう二時半したらもう上野先生が御神飯炊きに何時も二時半に起きて来ます。ならまあ一時間あるから皆さんちょっと寝んで下さい。
 秋永先生はそれからお風呂へ入られたりしたから、恐らく眠っておられんだろうとこう思います。是が自分の言うなら仕事か何か、それに打ち込んでまあそれで一生懸命働くと致しましたら、人間は神経がありますからね、昨夜寝とらんけんでと思うたら、もう眠うして眠り倒れるごたる。所が事信心でそれを御用と思うてさせて頂いておりますとです惟は次第次第に、はあー成程是は神様のおかげじゃなあ、自分の体じゃないなあね、神様のお許しを頂きゃね、昨日も寝んどらん。
 今日も寝んどらんというてもです、まあおかげを頂いて眠り倒れる事もない程しの、おかげを受けておると云う事です。だから其処辺からです、それがなら商売が本当に御用と云う事が解る様になるね。自分の用じゃない。神様の御用だと解る様になる時に、言うならばお参りをする時間も、自分の家で働くのも同んなじ様に成って来る。今日はもう本当に一生懸命、神様にお使い回し頂いて、と言う事に成って来るんです。
 だから私は成程、体はちびれるもんじゃないと云う事もです、本当である事が段々解って来ると思うです。一遍信心でちびれるもんじゃないと云う体験を造られたらいいですね。そう云う私くしは信心に一つの情熱をかけると云う事。是がもう矢張り信心に情熱を掛けるでなからにゃいけんのです、その辺が是を貰わんならん、是を頂かんならんから一生懸命なっとるというのでは効果が薄いですね、信心に情熱を掛けるのです、その云うならば信心の心でですね。
 教えを紐解くというか教えを頂くというか、そして今日はこの信心で行くぞと、この信心を生かして行く事が出ける、頂いて行く事が出来る。商売をするなら売り場買い場を大事にせよ、と云う事はどう云う事かと言うと、自分の周囲の全ての事、全ての物全ての人を大切にすると云う事と意味は同んなじだと思いますね。商売人が仕入れ先を大事にする。商売人のお客さんを大事にすると云う事は。
 もう全てを大事にする事なんです。本当に私くしはお道の信心を元にして、例えば商売をするならそこの一つ熱情をまず頂かして貰う、是は私しは信心の熱情を持ってするなら出来る思うです。もう我情がないもう我欲が段々ない。そして教祖様は嘘はおっしゃてはおられない。嘘を教えておられないと云う事が体験出来る様になります、そしてそれが身に付いたら、そうせなければおられませんね、信心はしござるけれどもね、何処どこよりも値段が同んなじ、信心なしござるけれども何処の仕事と同んなじ。
 それだったら言うならば、大した変わり映えはないと思うですね。同んなじ品ならば幾らか安い。値段が同じでも何処か品物が良い、位名事は私しは出来なければ出来ない。所がそれが難しい、特に売り場買い場を大切にすると言った様な事は、愈々実を言うたら難しい。私しはそのう例えば仕入れ先を大事にすると云った様な事は、向こうの言いなりで仕入れると言った様な事じゃ決してないと思うです。
 大事にすると云う事なんです。今日は私くしは何時もあのう夜の御祈念が終わったら、お届け帳を二冊合わせて、御神前にお供え致します。ですからあちらで最後までお届けをしとる時には、まだ墨が乾いてない何時も汚れとるけん、どうした事じゃろうかと思いよりましたら、重ねよるもんだから此処で汚れよった訳ですね。もう私はもうお届け帳の汚れるのが大嫌いなんです。
 ですからもう汚さん様にしとりますから、あのう吸い取り紙をね敷いて、そしてからしなさいと私は此の頃から言うとりますから、この頃はちり紙か何か下に敷いてしよります。所が今朝は、えらい長かとがついとりますもん、下にこんな長かとの。ほらぁ是は何と思うですか皆さん是ば敷いちゃる、是はトイレットペ-パ-ですよ。確かにそうです。誰がしたか知らないけれどもです、そりゃ新しい紙だからと言えば、そりゃ確かにそうですね。例えばならオカワば買うち来ちから。
 こりゃ新しいちゃからというて御飯をおちてはいくめえもん、ね、其処辺の考えの付かん様では、今日私が言うた事は解らんです。是は商売人だけではない、誰でも矢張り今日私が申します神経があるからと言う、そういう意味でも神経は使わにゃいけない。神様の前にトイレットペ-パ-でこうやってお届け帳を上げとる。そりゃ先生、新しかって御座いますけんと言うに違いないです。注意したら。そりゃ成程そうだろうけれども、トイレットペ-パ-には間違いないのです。
 お客さんに御飯を出す時に、オカワならオカワに御飯を盛って行ってから、それからついだらどげなふうですか。同じこっちゃん。理屈はね。だからそう云う所の履き違いをしない様にして、例えば是は非常に履き違える御教えなんです。この商売に対するこの御教えは。だから履き違えたんでは、頂き違えたんでは大変難しいです、して間違うね。例えば仕入れをするのに、例えば十円で卸してもらわんならんのに向こうが十一円と言いよんなら、それをなら大事にするとじゃからと言うて。
 なら十一円でも、ハイハイと言うて仕入れる。そう云う事じゃないと云う事です。大事にすると云う事なんです。神様を大事にする。大切にすると云う事なんです。それはどう云う事かというと、ならね自分はうっかりしとるけれども、大事にはしてない、お神様の前にトイレットペ-パ-をね吸い取り紙代わりに使っとるそうな結果になるのです。そして同時に私くしは是は商売人だけに対する所の御教えではない。
 是を深く頂くと皆んながそういうね、あの人は自分の方へ都合の良いから大事にする。この人は自分の方へ都合が悪いから大事にしない。そう云う事ではもう大事にしたのが大事にしたのではない。それは自分が欲で大事にしよるとだと云う事なんです。その辺の所の履き違えのない様なね一つおかげを信心を頂いて、又頂き違いの無い様にしておかげを頂いて、其処ん所には矢張り我が心からも練りださなければならないと云う事は勿論です。どうぞ一つお道の信心によって。
 大繁昌のおかげを頂かせて貰わなければならない。福岡の三代吉木先生が何時も仰っとられました。ここに参って来る皆んなが億万長者になる様にお願いしよると言い御座った。如何に神様、先生がお願いし御座ったっちゃ信者の方がそれを取替え違え頂き違えしたらおかげになりません。先生の願いとお互いの言うならば願いとが一致する所のおかげを頂かなければなりません。その辺の所に私は信心のね、一つ熱情をかけなければ、信心の熱情を掛けなければ本当なおかげになって来ない。
 沢山な御教えがあります。その御教えのどの一か条どの一つを頂いてもです、決して出来ん事は仰っていない。誰でもやろうと思えば出来る、私は思うんですけどもむしろ難しいと思う事がです実を言うたら容易いです。容易い事が実を言うたら難しい様に思います。例えばなら朝の御祈念なんかにですね、五分間時間を切らん様にすると言った様な事は、なら五分間切らんと云う事ではなくて五分間早う出て来る気になったら容易いとです大体ね。所がそんな容易い事がそれを本気で考えてないから難しいんです。
 私くし共は朝の四時の御祈念さして頂くとには三十分間早う出て来ます。神様は不思議なお方ですよ。今朝なんかもお話してもう二時半過ぎましたから寝まして頂きました。それから暫く寝まして頂いて今日は五分、十分位は例えば時間を切ってもです、一時寝むとに一時間十五分あそこの五分、十五分というのは本当に大事な時間です。まあそういう気があったから、又寝衣に着替えて寝とるんです。
 そしたらもう今日に限って今までかってない、栄四郎が三時十五分に出て来ました。本当神様ちゃね、やっぱりおかげ下さると思いましたよ。もう始めてかってないですね。私共の時計が丁度三時半でしたから、本当な事は三時十五分なんです。だからおかげで今日もおかげを頂きましたがです。私くし共が本気になって、たまぁに心がなら、例えば緩んでおってもです、その時は必ず助け船を出して下さるです。是はもう絶対ですよ。本気になっておけば、大体言うたらこげん難かしかろう事して容易いです。
 そりゃ皆さんがそう心に掛けておられてなきゃよいですよ。五時なら五時の御祈念をです、家の若先生どんがそうですね。私がもう朝の時間を一番大切に致します。だから私が五時に終わったら、もう五時にはサッと五時の御祈念が出来る様にあらなければならんと言うのを、私しが願にしてますけれども、この頃は十分、十五分遅れます。ですから私くしの御祈念が必ずこの頃は五時十五分位でしょうかね、例えば私が五時に下がっても、十五分間というもの、間が抜けてしまいますもん。
 皆さんがもうここでもう御祈念しょうと思うて見えておる。まだ御祈念をなさる先生は出て来て御座らん。その間十分、十五分待っとらんならん位、間の抜けた話はないです、だから神様の方が五時十五分位まで御祈念下さって、具合よう合わせて下さるけども、ならこれは私はまだ言うた事はありませんけれども、なら若先生が朝の御祈念に五分間早く出ると云う気になったら、いっちょも難しい事はないとです。それをギリギリ迄、ギリギリ迄と心に甘い考えを持っとるから、何時も遅れるんです。
 私は信心のね、此の辺の根性をね、私は持たなければいけないと思う。容易い事が難しい、実を言うたら難しい事が容易い。私は本当にそれを感じます。だから商売をさせて頂くものがです、実を言うならば、十銭のものを言うならば八銭で売ると云う事はです、実を言うたらそれは難しい事です。所がその気になったら容易いと云う事です。何故かというと必ず、それにはおかげが伴う。だから安う売らにゃ馬鹿らしい事になるから、難しい事ではないでしょうが。其の辺の私は一つの踏ん切りというかね。
 そう云う所へ根性を持たなければいけないと思います。如何にお取次して下さる先生が、皆が億万長者になる様にと祈って下さっても、こちらがね、その根性で矢張りなら受ける気持ちにならなければいけません。だからどうぞ皆さんが難しいと思うておる事は、本気になったら容易いです。容易い事はですね、その思いをそこに置いていないから、中々出来る事して出来ない事になります。まあ今日の七十九節はです、まあ頂くならば、どう云う様な深かぁい意味にでも商売人だけではない、百姓でも勤め人でも誰でもそう言う風に頂ける御教えだと思いますね。
   どうぞ。